友人と昔語りをしていました。
いま『源氏物語』を読んでいるのですが、光源氏がしみじみ女房たちと昔語りをする場面が出てきますが、そんな感じに似ていました。
かつて密度濃く付き合っていた友人たちについて消息を語り合います。
友人の中には、40歳になるまでに死亡してしまった者もいます。優秀な銀行マンでした。
こうして語り合うのは、何度同じテーマを語り合っても楽しいものです。それは学校の同窓であるという気安さも手伝っていることでしょう。それが年齢の違う人を、自分の生活する場所に呼んで語り合うという場合はどうでしょう。それが近距離ではなく飛行機や新幹線に乗って到着しなければならない例を考えてみましょう。学校の同窓なら、わざわざ遠隔地に行くのも厭わないかもしれません。
しかし、老若関係なく年齢の違う人を招く場合は、招いた人はあるレベル以上の社会的態度を示す用意があるというものです。日帰りの場合なら、少なくとも往復の交通費は負担する、滞在中の食事などは用意する(または招待者の分まで負担する)といったことです。それはマレビトを迎える際の敬虔さの表出とでも言うのでしょうか。しかし、そんな負担をしてもらわなくても遠隔地に行く場合もあり、全く自前ですますこともあります。例えばそれは恋人同士がそうですよね。また招待する者がそっと招待した者になんらかの形で費用負担分を手渡す(それは必ずしも金銭そのものでなくていいと思います)などの例が考えられ、どうやって渡すかはダンディズムを発露するチャンスでもありましょう。
筆者の知るTさんはそうやってA街に招待されたのですが、往路の交通費は自前、しかも誘われた食堂はTさんがいま食べないと決めている領域の食材がダシに入っている。Tさんは少し前から食事療法をすすめていて、そうした食材を使う麺類屋に一切行っていないのにもかかわらず、その招待した人の導きに従って食事を共にした。「少しだけしかそのダシにしかつけなかった」というのですが、Tさんがその食事療法をしていることを知っているSさんは、「A街に行くというので、Tさんが食べることが出来る食材で料理を出す食堂に連れて行ってもらうのかと思っていたけど、麺類屋に行ったのですか」と驚いています。招待したその人はTさんの食事療法を知っていたのかどうか筆者は知りません。一方のTさんはその食事療法をして二カ月たっているので、「そろそろ緩和してもいいかな」と判断してそのダシに麺をつけたそうです。Tさんはその人に招かれた食堂のダシに合わせて自分の行動規範を修正しているのかもしれません(だいたいこうして行動規範を変更する契機にその人の存在が関与しているように思われます)。別に悪ぶれるようでもないので、その人との出会いを楽しみ、その人の言動や生き方、趣味などに心酔しているので、筆者のようにA街に居合わせなかった者がとやかく言うことではないようです。しかし、筆者のような第三者だからこそ見えてくる視点があります。Tさんはその街にわざわざ行って楽しんだようですが、その食堂で出されたダシにしろ、かかった費用にしろ、ほんとに年下の知人を呼ぶための社会的態度をA街で享受したのか、と思ってしまうのです。